創業の地は「長野県 上水内郡 古牧村」
農家の冬期間の副業として、信州の気候風土を活かした天然製法による凍豆腐(しみとうふ)の製造を開始して、新たな食文化の流れを生み出しました。(詳細説明はこちら)
コーポレートマーク
当時は創業の地である「上水内郡古牧村」の地から「古牧園」という屋号が使われていました
ロゴデザイン
主力商品
天然製法による凍豆腐(しみとうふ)
当時は凍豆腐をわらで編み、5個を2つ組み合わせた状態で販売
代表者 塚田藤一郎
生年月日 明治6年11月18日
代表就任 明治35年12月1日
製造の様子
生豆腐の製造
製造の様子
切断・凍結
祝賀会にて
藤一郎(中央)と豊明(右)
凍豆腐(しみとうふ)の歴史は古く、実に350年ほど前から紀州高野山、信州、東北地方で作り始められたと伝えられている。高野山の凍豆腐の誕生は史実によると全くの偶然が生み出したもので、「ある高野山の一寺院の小僧さんが豆腐を外に置き忘れたところ、翌朝カチカチに凍っていた。それを何気なく融かして食べたところ、えも言われぬおいしさだったので、以後たびたび凍らせて食べるようになった」と言うものである。信州の凍豆腐は、佐久高原の農家で始められ、武田信玄が信濃遠征の折、兵糧の充実に備えるため、街道筋にあたる佐久に大豆の増産を図り、味噌と共に凍豆腐の製造方法を教えたと言うものである。高野豆腐が高野山信仰を中核に、高野聖や西国巡礼などを有力な媒体にして、しだいに産地を増やし、消費者をも増加していったのに対し、信州の凍豆腐はそれを伝播してゆく媒体も持たず、産地の中心もなかった。高野豆腐の名声が高まったのは明治十年に起こった西南の役に軍需用乾物品として用いられてからであった。この頃から、大阪の乾物問屋は高野豆腐を重要乾物品と見なすようになり、強力な資本力を持って積極的な集荷に乗り出し始めたのである。
その頃、長野県でも凍豆腐製造への取り組みが始まりつつあった。長野県上水内郡古牧村の冬は厚い雪に覆いつくされる。北信濃地方特有の厳しく長いものであった。当社の創業者塚田藤一郎は、進取の気性に富んだ人物で、かなり以前から北信濃という寒冷な土地柄を利用した新しい産業はないものかと思案を続けていた。そして、考えついたのが凍豆腐製造であった。農家にとっては、冬の副業を確立することは重要な意味を持っていた。農業収入は年1回きりであり、これに数回の養蚕業の収益を加えても商工業のように資本が回転するわけではない。<いずれ凍豆腐が農家の副業として、いや、信州の重要な産業としての地位を確立するに違いない・・・>藤一郎はそう考えていた。寒冷な北信濃地方の冬は、まさに凍豆腐製造にはこのうえない好条件だし、原料の大豆にも恵まれている。<やはり凍豆腐づくりに手を付けるべきだな・・・> まだ、降り続く外の雪を見つめながら、力強くうなづいた。
参考文献 みすゞ豆腐八十年の歩み