梅雨時の湿度による商品の変性。
「酸っぱく」なった凍り豆腐を企業の存亡をかけて何とか食べられるようにするために、乏しい化学の知識と昼夜に及ぶ地道な実験から生み出された“アンモニア膨軟加工法”。もどりが良く、おいしい凍り豆腐を実現し、この発明は特許を取得して「みすゞ豆腐」として全国に専売され爆発的な反響を呼びました。そして、需要が拡大するアンモニア膨軟加工凍り豆腐の生産を補うために、人工凍結方式を採用することで通年操業ができる居町工場を建設し、本格的な工業生産が始まりました。
その後、様々な紆余曲折を経て、第二次世界大戦も重大局面を迎えた昭和18年、当社はこれからの業界発展のための大乗的見地に立って、この特許を無償公開しました。(詳細説明はこちら)
コーポレートマーク
「みすゞ」とは信州に古代より広く生息していたササダケの一種「水篶(みすゞ)」の事。万葉集にも信濃の枕言葉として歌われています。いかなる辛酸にも耐えて強く伸びる「みすゞ」に思いを寄せ、社名とマークに採用しました
ロゴデザイン
主力商品
製法特許「膨軟加工法」でソフトなおいしいみすゞ豆腐を10個単位のセロファン包装で販売開始
代表者 塚田豊明
生年月日 明治35年2月13日
代表就任(みすゞ豆腐古牧園) 昭和5年12月12日
代表就任(みすゞ豆腐株式会社) 昭和24年4月21日
製造の様子
生豆腐の製造
製造の様子
生豆腐の冷却・切断
大正12年頃から凍豆腐業界にも一つの動きが見られた。長野県凍豆腐業が強力な既成地盤を持つ関西業者と互角に競いあって行くには、「全県的規模の組合の結成が必要ではないか」との声が急激に高まり、大正13年に「長野県凍豆腐業組合連合会」が発足した。
しかし、関西市場の販路開拓は順調には進まず、信州凍豆腐であるというだけで問屋筋からも敬遠されがちであった。そんな中、信州凍豆腐の混沌を救ったのは大正14年に発明された「豆腐の中に澱粉を加工して柔らかく食べられる方法」つまり、文化豆腐であった。
翌年には、文化豆腐が長野県凍豆腐業組合連合会の販売網に乗り、関西物をしのぐ売り行きを示し始めたのである。
ところが昭和4年の事、昭和初期の大不況のため売れるものは質が悪くても価格の安い2、3等品ばかり。高いものは売れ残ってしまった。さらに、統制により連合会を通さないと売ることが出来なかったために、梅雨を越して倉庫に積み上げてあった凍豆腐に変質が起きた。8月になって検査員が倉庫の商品を点検し始めると「今年は梅雨でどこの家の豆腐も酸っぱくなって食べられないが、この状態じゃあ倉庫料をかけるだけ無駄だから、今のうちに豚にやってくれ」と簡単に言うのである。連合会の指示でストップしておいた商品が酸っぱくなったら簡単に捨てろと言われても、2代目豊明は連合会の無責任な姿勢が許せず「この豆腐を元通りに直して見せる!!」と決意した。
凍豆腐を販売しなければ秋に大豆の仕入れができず、売るためにはどうしても「酸っぱく」なった豆腐を直す必要があった。「酸を中和すればいい訳だから、まず問題は中和の仕方だな」。酸を中和するにはアルカリが必要で、まず思いついたのが重曹だが、その重曹を水に溶かし、それに酸っぱくなった凍豆腐を入れれば中和され酸味が消える。しかし、商品にするためには再度乾燥しなくてはならない。この時にふっとアンモニアガスのことを考え付いた。アンモニアなら農学校で使った経験もあった。これも水がなければ化学反応は起こらないのである。しかし、酸っぱくなったということは15%位の水分が含まれているということにならないだろうか。何はともあれ、やってみる事である。早速、薬局へ行って、必要な資材と薬品を買い求めて来た。ビーカーに入れた薬品をアルコールランプの上に乗せ、酸っぱくなった凍豆腐を数個、三重のパラフィンの袋に入れる。そしてビーカーから立ち上るアンモニアガスを、ゴムのパイプを利用してその袋の中に注ぎ入れるのである。時折、袋の中から凍豆腐を取り出して舌の先で注意深く舐めてみるが酸味は依然として消えない。
3日目の晩、立ち上るガスの真ん中に凍豆腐を置きながら考えた。「中和されてpHが6~7になってゆくと、湯の中に入れば膨れるのではないか」と推理した。今度は濃度の強いガスを作って実験に没頭した。古い農家の8畳の座敷はアンモニアの強烈な臭気でいっぱいである。部屋にはますますアンモニアガスが充満し、鼻や胸がいよいよ苦しくなる中、もういいだろうと思い、アンモニアをたっぷりと含んだ凍豆腐を取り出し、祈るような思いでどんぶりの中に入れお湯を注ぐと、どうだろう。凍豆腐はみるみる内に大きく膨れ上がっていったのである。
これが画期的な「アンモニア膨軟加工法」の誕生の瞬間である。すぐに特許の申請を行い、豊明のアンモニア膨軟加工法は昭和6年4月22日特許第91180号として登録された。
そして「みすゞ豆腐」という名称で全国に専売したのもこの時からである。このアンモニア膨軟加工法は各地で爆発的な反響を呼んだ。世はまさに大不況の只中にあったが、この発明が、業界全体の危機を救う起死回生の一大功績であったというべきであろう。
その後、アンモニア膨軟加工法の特許は第2次世界大戦も重大局面を迎えた昭和28年、豊明は業界発展のため大乗的見地に立って、これを無償公開したのである。凍豆腐業界も、アンモニア膨軟加工法の発明を機に明らかに近代化に向けて大きく脱皮し始め、問屋制家内工業による注文生産から資本制工場生産方式を確立して、急激に拡大するアンモニア膨軟凍豆腐への需要を賄うため、「みすゞ豆腐」は昭和7年、長野市鶴賀居町に、通年生産の新工場を建設したのである。
参考文献 みすゞ豆腐八十年の歩み